飼い主バカ

★日本語【不可能の表現】




急に涼しくなったと思ってたら
また少しムシムシ陽気が戻った
ある日の晩。
 



ひんやり玄関土間に
ころがる猫いっぴき。



夜の写真撮影は
オバの腕ではどうしようもない
と思いつつも
あまりにかわゆい顔をしてたので
れっつちゃれんじ。



あら、かわいい。





うひゃひゃひゃ。





目が、目が~♪

 

すっかり浮かれて

写真を量産。

 


やだもー。

どれを載せたらいいかしら~。

選ぶことなんてできないわ~。

選びようがないわ~。

決められないわ~。

 

 


――と
暗い写真を並べたてる。
 

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※今週の日本語バナシは
 〈不可能〉の表現あれこれです。⇩

***

★日本語【〈不可能〉の表現】

 

〈不可能〉を表す文型はいくつかあります。

いずれも動詞を使って――

 

 ①辞書形+ことができない

  (例)決めることができない

 

 ②可能形のナイ形

  (例)決められない

 

 ③連用形(=マス形)+ようがない

  (例)決めようがない

 

 ④辞書形+わけにはいかない

  (例)決めるわけにはいかない

 

 

ほかにも「無理、難しい」などを使えば

「決めるのは無理だ」のように

いくらでもバリエーションはありますが、

語彙を援用しない文法的手段としては

上記の4つが代表的なところでしょう。

 

 

 

 

そしてひとくちに〈不可能〉といっても

何がどうして不可能なのか、

子細に見ると、いろいろ違いがあります。

③は手段がないという感じがするし、

④は事情が許さないという感じがします。

同じ〈不可能〉といっても、

能力の欠如や不足とは限らないのですね。

 

 

この別を

〈能力可能〉〈状況可能〉といいます。

言語によっては、これを表現し分けます。

日本語も、③や④の文型を使えば

状況可能(の不可能)を表せますが、

①②を使った場合には、

どちらの意味なのか、判然としません。

 

 

しかも③や④は書き言葉ですよね。

日常のくだけた会話では使われません。

日常の会話では①や②を多用しますから

能力がないから無理なのか

状況ゆえに無理なのかの判別は

文脈に頼るしかありません。

 

 

**

 

 

ここで久しぶりにお国自慢をします。

飛騨高山方言にはちゃんとあるんです。

日常普段の会話に使える区別があるんです。

 

 

それぞれ、aは能力、bは状況的な不可能です。

 

(例1)

 a.わたし、富士山なんかよう登らん

 b.冬はどっちみち誰も登れんし。

 

(例2)

 a.あんな狭いとこによう止めん

 b.あほ。駐禁やに。止めれんて。

 

(例3)

 a.ビールみたいな苦いもん、よう飲まん

 b.きょうは車で来とるで飲めんのや。

 

 

どうです?

マメでしょ?

 

 

ちなみに――

bは標準語のいわゆる可能形ですが、

高山方言の可能形はら抜きが正用です。

というか、五段動詞にも一段動詞にも

レルをつけるのがごく当たり前です。

ですから、

一段動詞の「止めれん」は正しいし、

五段の「飲めん」にさらにレを足して

「飲めれん」ということもあります。

 

 

***

 

 

さらにさらに、自発も入れると

もっと微妙な違いが表現できますのよ。

 

(例)

 a.わたし、納豆なんかよう食べん

 b.わあ、こんな御馳走、めったに食べれんよ。

 c.もうお腹いっぱい。もう食ばらん

 

 

うふふ~♪

高山弁エライ!の

ひと押しをお願いしま~す。

※うちらの方言も区別するよ!

という方は

教えてくだされ。

 

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コメント

「食ばる」というのは「溜まる」あるいは「貯まる」に近い意味合いでしょうか?
お腹の中に食べ物が「たまる」様子をイメージしました。独特の表現ですね!

いわば、他動詞(「食べる」)と自動詞(「たまる」)の中間的存在のような気がしました。

  • 中村菜花群
  • 2021/09/14 06:50


◇中村菜花群さん◇
うーん、違います。無理に解析すれば、「(量、大きさ、味、硬さなどの点で支障がなく)無事にのどを通る」という感じでしょうか。胃の中に「たまる」以前の話です。たとえば幼児に向かって「こんに(=こんなに)大きいりんご、食ばるか?」と言うとか、「おじいちゃんにはタクワンみたいなもんは食ばらんよ」のように。/自動詞・他動詞の別は目的格を取るかどうかだと私は理解しています。それでいくと、可能も自発も、動詞の自他でいえば自動詞ですよね。2つの形式の問題なので「中間的存在」というのはないと思います。/可能と自発、受け身と自発の関係は非常に難しい(だからこそおもしろい)と思います。いろいろ考えだすときりがありませんけれど、尾上圭介先生の言われる「出来文(しゅったい・ぶん)」という考え方が、私にはすとんと腑に落ちる気がしています。

  • ニャンタのおば
  • 2021/09/14 09:55


◇中村菜花群さんへ追って書き◇
「独特」という点について、書き洩らしました。たしかに高山弁は標準語に比べて自発表現が発達しているという感触は、私にもあります。ですが、「温める」に「温められる(受け身/可能)」「温まる(自発)」があり、「思う」に「思える(可能)」「思われる(受け身/自発)」があるように、標準語にも動詞によってはごく普通に存在します。さらについ先日、ラジオ番組を聞いていたら、低周波治療器で太ももの筋肉を鍛えたいと思ったというパーソナリティー(菅田将暉)に向かって、ジムを経営しているというゲスト(マヂカルラブリーのどっちか)が「いや、(あんなものでは)きたわらないですね」と複数回言っていて、ほー、と思いました。彼がどこの出身かあとで調べてみようと思いますが、自発動詞というのは、語彙として固定したものだけでなく、まだ生産性をたもっている形式なのかもしれません。

  • ニャンタのおば
  • 2021/09/14 10:08

説明不足のせいで、私の抱いたイメージが巧く伝わらなかったようです。

「中間的存在」というのは、英語で言う「中間構文」のような単語の用法を言いたかったのです。私は外国語に詳しくないのでお恥ずかしい限りですが、

 The book sells well.(その本はよく売れる。)

という文の「sell」みたいな、本来は他動詞(「売る」)であるはずの語が、自動詞(「売れる」)として用いられるイメージです。

日本語でも、たとえば「開く」という語は自動詞・他動詞の両方の意味を持っていますね。

  ドアが開く。〔自動詞〕
  ドアを開く。〔他動詞〕

一つの状況として、たとえば自分がドアを開こうとした時に、何の抵抗もなく自然にスゥーッとドアが開いたような場合。
「食ばる」における「(量、大きさ、味、硬さなどの点で支障がなく)無事にのどを通る」イメージに通じるものがあるのではないでしょうか。

  • 中村菜花群
  • 2021/09/14 13:33


◇中村菜花群さん◇
中間態のお話をなさっているとは気づかず、失礼しました。英語の場合は、多くの動詞が自他両用で、挙げられたsellの例も、再帰動詞の再帰目的語が消えたものであるなど、いろいろな解釈(activo-passiveとかconverted intransitiveとか)があるようですね(←英語学辞典からの受け売り)。いっぽう日本語は、自他異形が発達しています。むしろ、同形で自他両用の動詞はかなり少ないのではないでしょうか。基本語彙では、挙げられた「ひらく」のほか「終わる、閉じる、触れる、吹く」くらいしかないと思います。そして、「食べる」は対応する自動詞がないものですが、高山弁では自発の形態がある、ということを申しました。なお、先にも申しましたが、「たまる」とは意味的にも語源的にも別語です。/「自発」(あるいは「出来文」)という便利な国語学の用語があるのですから、ここはそれでご理解いただければいいのではないかと思います。/コメントのご趣旨を正しく理解しているかどうか心もとないところがありますが、私が今お返しできるのは、以上です。

  • ニャンタのおば
  • 2021/09/16 12:33

詳しく解説していただき、ありがとうございます。

最初、「食べる」という語の〝自発〟的な意味というのが具体的にイメージ出来ず、自分なりにあれこれ考えを巡らせました。
「霞を食べて生きると言われる仙人なら、自然に口の中へ霞が流れ込んで来るだろうけどなぁ」などと、他愛ない空想もしました(笑)。
それで、一つの方法として、他動詞・自動詞という観点からアプローチを試みたわけです。
(「たまる」という語は「たばる」と音が似ているので、単なる思い付きで挙げたにすぎません。)

能力可能と状況可能、自動詞と他動詞、受身・可能・自発、出来文、そして方言。
今回は盛り沢山にいろいろ考えるきっかけを頂戴致しました。
大変良い勉強になり、楽しかったです。どうもありがとうございました。

  • 中村菜花群
  • 2021/09/16 16:53


◇中村菜花群さん◇
なんと! 「自発(態)」が文法用語だということが伝わっていなかったわけですね。これはしたり。「受け身」や「使役」などと同様、ふつうの国語教育で習ったような気がしていて、何も思わずに記事に使ってしまっておりました。以後、気をつけます。貴重なコメントをありがとうございました。

  • ニャンタのおば
  • 2021/09/16 18:19

物凄い誤解ですね……!
びっくりしました(大笑)。

「自発」が文法用語だということは、重々承知しております。

「食べる」という行為は自然発生的に起きるものではなく、意志を持って行うものなので、“自発”的に「食べる」という行為が起こっている状態を具体的にイメージするのは難しいと、そう申し上げたかったのです。

食べる気もないのに食べ物が勝手に口に入って行き、飲み込む気もないのに自然に喉を通って行くはずはないと、そういうことを申し上げているのです。

それすら伝わらなかったとは、私の表現力の無さを反省すべきですね。

こちらが「なんと!」と叫びたいです。
まったく「貴重なコメント」ではありませんでした(大笑)。

  • 中村菜花群
  • 2021/09/16 20:35


◇中村菜花群さん◇
再々失礼いたしました。「自発的に」とか「自然に」という表現をお使いでしたので、もしや「自発」が術語であることをごぞんじないのかもしれない、と思ってしまったのでした。/そのうえで失礼を重ねるようですが、「意志性」と「他動性」を混同なさっているということはないでしょうか。そもそもが「自発(態)」は意志動詞に起きるものです。無意志動詞が自発態になることは、理論上ありえません。そして、その動詞が自動詞か他動詞かということとは、まったく関係がありません。/もし「食べる」の自発態の語感がどうしてもイメージしにくいようでしたら、北海道弁の「~さる」についてでしたら、論文がたくさん出ていますので、お読みになってみてはいかがでしょうか。たとえば⇒https://core.ac.uk/download/pdf/250604116.pdf

  • ニャンタのおば
  • 2021/09/18 12:35

難しい論文のことはそれこそ何も存じませんが、「自発」というのは感情や感覚に関係する動詞に起きるものだと思っています。
感情や感覚に関係しながらも、それが〝意識せずに〟〝ひとりでに〟起きるものだと、そういうふうに理解しております。

ところが「食べる」という行為は感情や感覚に直接関係しません。
そして、意識せずに「食べる」という行為が行われるはずはないのです(夢遊病者ではないのですから)。

「無意志動詞が自発態になることは、理論上ありえません」とおっしゃいますが、たとえば「建てる」(他動詞/意志動詞)に対する「建つ」(自動詞/無意志動詞)を自発と捉える考え方のほうが、「食べる」よりはよっぽど〝自発〟らしいと感じます。

ずっと空地だった場所に「家が建った」というような場合。
知らないうちに(意識せずに)〝建つ〟という状態が出現した場合。

この「建つ」を学術的に「自発」と考えてよいのかどうか存じませんが、少なくとも「食べる」よりはよっぽど理解しやすいと思います。

お恥ずかしながら、「食べる」の語に自発表現が存在するというのが、どうしてもイメージできないのです(「可能」の意と捉えるなら、すんなり理解できますが)。

そもそも、掲げていらっしゃる高山弁の例文「もうお腹いっぱい。もう食ばらん。」を「自発」だとする根拠は何なのでしょうか。私には「可能」の意味みたいだなぁ、との想像しかできません。
その点を(それこそ〝小学生にでも解る〟ように)御解説いただければ幸いです。

  • 中村菜花群
  • 2021/09/18 20:40


◇中村菜花群さん◇
いちばん初めのお返事に書きました通り、可能・自発・受け身の渡り合いは非常に微妙でかつ興味深いものです。もしほんとうに知りたいとお考えなのでしたら、「難しい論文」も敬遠なさることなく、ぜひお読みください。たとえば先のお返事でご紹介した論文はお読みいただけましたか? あの論文の参考文献だけであれだけの数があるのです。それだけの大きなテーマを、このようなブログのコメント欄で、小学生にもわかるように解説するなど、とうていわたくしの手には負えませんし、また(突き放すような言い方になりますが、)中村さんお一人のために、それだけの時間を割くゆとりは、いまのわたくしにはありません。いただいたご質問やコメントには、できる限り誠実に対応しようと努めているつもりではありますが、どうかそのことは、ご理解くださいませ。/ちなみに先の論文の参考文献の最後には【山田敏弘 (2007)「日本語における自他の有対性と他動性―岐阜県方言の自動詞『おぼわる』『鍛わる』『のさる』『どかる』を通して―」『他動性の通言語的研究』pp.271-282. くろしお出版】があがっていましたね。山田さんの論文は、(小学生には無理だとしても)とてもわかりやすく書かれています。自発態が認識・思考動詞だけに限らないこと、ぜひご確認ください。

  • ニャンタのおば
  • 2021/09/19 13:52

北海道弁「~さる」の論文は、もちろん拝読しました。
例文が「自発」と受け取れる明確な理由説明がなされ、非常に解りやすかったです。あれなら小学生でもすんなりと内容を理解できるはずです。

しかし、それが今回の高山弁とどう関係するというのでしょう。あの論文をお示しになった意図が全くわかりません。私はただ、「食ばる」を「自発」と御判断された理由が知りたいだけなのです。

「可能・自発・受け身の渡り合いは非常に微妙」であるにもかかわらず、それをあっさり「自発」と断定した根拠が何なのかを知りたいだけなのです。御自分の判断なのですから、膨大な論文を一々検証する必要もなく、一言で済むでしょう?

現時点で私は「食ばる」を可能動詞であると判断しています。そして、「自発」ではないということの理由説明を、自分なりに、簡潔に述べられるつもりです。
それが間違っていると自覚すれば、当然改めなければなりません。勉強とはそういうものでしょう。

文法も、一つの「法」です。法である以上、法そのものは常に単純明快な判断が下せるものでなければなりません。中学高校でも文法を習いますが、線引きがあやふやなら、生徒は誰も納得しないでしょう。そして、そんなあやふやなもので試験されたら、たまったものではないでしょう。

「自発」と「可能」は明らかに違います。むしろ、線引きが難しいものほど、暫定的でも〝明確な判断理由〟を示す必要があり、線引きに誤りがあれば、法そのものを改正しなければなりません。それが〝文法〟に携わるものの務めでしょう。
これがもし法律なら〝微妙〟〝どちらともいえない〟では済まされないのです。現時点での明確な判断、明確な理由説明が常に必要なのです。

しかし、もうこのくらいで止めておきます。
「食ばる」の理由説明を一切頂戴できなかった点は誠に残念ですが、〝私一人のために〟〝貴重な〟お時間を費やしていただいた点は感謝致します。

頓珍漢な遣り取りと長々とした水掛け論を、どうもありがとうございました。
今後お手を煩わせることは二度とありませんので、どうぞ御安心ください。

  • 中村菜花群
  • 2021/09/20 07:28


◇高山弁の「食ばる」を〈自発〉と解する理由◇
 質問をくださった方にはもうお読みいただけないとは思いますが、ほかの読者の方にも気持ち悪い思いがおありかもしれません。不精確になることをおそれず、ごく簡単な対照例を挙げておきます。
 〈可能〉と共起することの多い能力・技能をホメる表現や、手段・道具格補語が、「食ばる」には共起しにくいことを示すものです。

(1)
〇この子はまだ小さいで、箸ではよう食べんよ。
×この子はまだ小さいで、箸では食ばらんよ。

(2)
〇あれ、きれいに食べれたなあ。えらいえらい。
×あれ、きれいに食ばったなあ。えらいえらい。
※〈能力可能〉の「よう+辞書形」は肯定には現れにくく、肯定の〈能力可能〉には「~れる」形が使われます。

  • ニャンタのおば
  • 2021/09/20 11:04